昭和41年05月10日 朝の御理解



 「よかるものによかるより、神に心任せて心安かれ。」

  よかるもの、よかりもの、寄り掛かる物頼るもの、例えば心配事がありますとそれを人や物やらに頼る。そう云うものに頼るなそれは頼れる様で頼りにならんのぞと、そう云うものに頼ってよかるより神様に心を任せて、心の中に安らぎのおかげを頂けと。中々難しい事だと思いますね実は。その神様に心をお任せすると云うお任せする神様が信じられなければ心安かれと云うおかげは頂けるものでは御座いませんのですから。
 常日頃しっかり信心の稽古をさして頂いて神様の働きと云うか神様のおかげをよく体験さして頂いとらんといよいよの時よかるものによかる、いわゆる寄り掛かる物により掛かろうとする。成程寄り掛かる物がちゃんとしておればいいので御座いますけれど、例えばこう云う物にこげん寄り掛かろうとこう致しますと、是がちゃんとして居ればよいのですけれど、寄り掛かる者が向こうの方へ倒れましたり、向こうの方へ引かれたりするとこちらが倒れにゃならんでしょうが。
 はあ私しゃもう家の息子に頼っとる、さあそれこそ打ち殺しても死なんごたる、健康な息子が居りましても何時どう云う様な、事故にあって亡くならんとも限りませんもんね。そうするとそりゃ息子が頼りにゃならん事になるでしょうが。息子が頼りで御座います、頼りになる息子が居る筈はない。実を云うたら、もうといよいよの時には金があるけん金でします。その金とてもそうですよ。頼りになるもんじゃありません。物や金や人やらに頼る。だからまあ頼るなら頼って見るが良い。
 そしてそれが頼りにならん事を、分からして貰うて、そこから何か、縋らなきゃおれんところからの信心が始まる。そして、神様の縋れば縋るだけ、お任せすればお任せしただけ、この神様は縋りがいのある、成程この神様に、お任せすれば大丈夫と云う体験が出来て来る。例えば切り花を致しますね。花がここに活けてあります。特に下の方はシャクヤクでしょうか、これは非常に水揚げが悪い花です。切り時が悪かったり致しますと、せっかくの花もそのまましおれます。葉もすぐに駄目になります。そしたら切り花としての値打は御座いませんね。
 けれども是を切る時が、例えばお花なんか活ける時には菊やらシャクヤクやらは水切りと云うのをします。水の中に漬けといて水の中でハサミを入れる。いわゆるお恵の水の中で切るのです。すると水揚げがシャンとしている。蕾なら花も咲く、葉も生き生きとしてシャンとしておる。そう云う切り方があるのです。お恵の水の中で切らねばいけません。ここで猫のお知らせなんか頂きますと、これは不浄と云います。
 猫そのものが悪いと云うのじゃないでしょうが、例えて云うならそう言う風に申します、牛のお知らせを頂いたらめぐりと申します。猫のお知らせなんか頂きますと不浄と、例えばその今日の御祈念中にも猫が鳴いていましたね。ここにも猫がおったんですけど、何処に行ったのか今いないのです。最近それで鼠が非常にゴタゴタします。もう天井を運動場のごと思うとる。所がその何処からか朝方頃ああやって来ます。
 そのまあ泥棒猫だと言ってますけれど、あの泥棒猫でもやって来てからニャオニャオやってくれますと鼠がコトッと言わんごとなる。例えば猫は不浄と云うけれども、その不浄でも不浄のあるおかげで、頭の黒い鼠がコソコソ致しません。お互いの心の中には云うならば善と悪とが同居して居る。何と云うか仏と鬼が同居している。こちらの方には仏の様な心があると思うと、反面鬼の様な心がある。
 そこが相まってゆく所に一つの調和を生むのです。私共が厳密に言うと不浄の無いものはありますまい。けれどもその不浄のおかげで、心の中にバタバタしておる頭の黒い鼠がおりおうとる訳です。意味が分かるでしょうか。この事はようと後から考えて見て下さい。先生はどう云う為にそう云う例の話をしたか、考えてみますと味わいのある事です。私が今心の中に不浄の無いものは無かろう、その不浄のおかげで鼠がバタバタしない、心の中の鼠が心の中に、猫と鼠が同居しておるんだと云う事です。
 例えば切るでも只の切り方をしよりますと枯れる。花はしぼみ葉は枯れる。けれども同じ切り方でもお恵の水の中ではさみを入れますとそれが葉も生き生きとしている、花も水揚げをする、蕾なら咲きもする。そういうおかげを頂かねばいけんのです。そこでもう一辺私が申しましたその事を、よかるものによかるより、神に心任せて心安かれ、そこからおかげが受けられる。まあ本当の事を云うとこう云う風な様々の所を通らして頂きましてね、その神様の確信と云うものが頂ける。
どんな場合でもこれから先信心しておりましてどの様な事が起きましても驚いてはならぬと仰る、その驚かんで済むだけの信心を日頃頂いておく事。是が一番なんですけれども、始めからそういう人がおる訳ではありませんから、御取次心配事難儀な事があったら御取次を願う。先生にその事を御取次頂くと、心配いりませんよ、しっかり信心しなさい、と言われて安心して帰る。その安心がおかげ頂く元になるのです。
 先生がああ言うて頂いたけれどもその事を心配せにゃおられんと言うてから、心配を持って来とってから又心配を持って帰ろうとするからおかげにならんのです。成程先生にお任せしておる、神様にお任せしておれば、こういうおかげが受けられるんだと云うおかげをお互いが頂かねばいけん。そして成程いよいよこの神様にお縋りさして頂いておれば一心に縋っておれば心配は、いらんものだと云う確信を、お互い積み重ねさして貰って安心のおかげ、例えて申しますならばですよね。
 まあここに畳一枚の長い橋があると致しましょうか、これから向こうの壁まで長い橋がある、しかもその橋はもう山の峰から峰に架かっておると致しましょうか。下を見たら目が回るごたる。ですからこの橋を渡っとりますと目が回るごつある。足がガタガタ振るって来る。だから落ち込まんでもいいのに足がガタガタ振るって来るから落ち込まんでいいのに落ち込まにゃならん様な結果になるです。
 けれどもこの橋にです、例えば同じこの畳一枚の橋にです、両側にしっかり手摺があると致しましょうか、それは成程峰から峰に架けられている橋でも手摺があるから大丈夫。手摺があるから落ちません。この安心があるからここ渡るのも平気でしょうが。どうでしょう。皆さん畳の上をです、畳一枚の上を歩いてご覧なさい。平気で歩かれるでしょうが。皆さん畳の上だから落ち込まないと思うから。
 けれどもこれがその峰から峰に架けられた、橋であったとすると中々よう歩かん。落ち込んどんすると死ぬるもんだから足がガタガタ振るう。いわゆる安心がいかない。安心がいかない事が落ち込む元を作るのですから、矢張り安心のおかげを頂かにゃん事が分るでしょうが。不安でたまらん、そこで一心の信心をさして貰う。成程始めの間は先生が心配はいらんばの言うたっちゃ心配になる。
 そこで一生懸命信心さして貰う。一生懸命修行さして貰う。不思議なんです、心を神様に一生懸命向けさして貰うて、一心にお縋りして修行でもさして頂いとったら、心に安らぎが生まれて来る、安心が生れて来る。平常心が生まれて来る。ままよと言う心が生まれて来る。ままよとは死んでもままよ。どん腹が座る、どん腹が座る所からこの橋を渡るのですから、足も振るいません。危ない事もありません。
 ですから、無事渡る事が出来る様な、おかげを頂ける様な道理。皆さん、あれも頼りになる、これも頼っとる。家の息子だけは、出来が良かから、この息子一人を、頼りにしとりますと云う事は、矢張り止めなきゃいけません。いくら頼りにしておる息子でも、神様が、その息子を取り上げなさったら、それっきりですから、頼りになるものはなあにもありません。いいや自分の腕だけはと、言いますけれど、自分の腕だってああた、頼りにはなりゃしません。
 どんなに腕力がある力の強い腕を持っといても、例えばちょっと怪我して見なさいもう自由を失って仕舞うじゃないですか。中風にでもなって載って見なさい、さあ自分の腕一本がどうでも出来ないでしょうが。自分の腕とても頼りにゃならん。自分の信用しとる息子だって頼りにゃならん。ほんと云うたら、お前のごたった頼りにゃならんから、俺りゃ頼りにゃせんそっと、そう云う意味じゃありません。
 真実実際のところ頼りになるものは何もない、自分の腕だって、もう自分そのものが頼りになるものでは、何もない頼りになるものは何かと言うと、目には見えません、。声も聞こえませんけれども、ほんとに頼りになるものは、神様だけだと云う事を分からして頂く事が信心。そこに安心の生活が出来るのです。ですから、神様を信じ切らして頂く生活をさして頂く為に、神様がいよいよ信じられる為にその神様を頂かして貰う日頃の信心の稽古が必要だと云う事です。
 それで不安な事がある、心配なことが起こって来る事は、その事を通していよいよ、神様の間違いなさを分からして頂けれるチャンスに恵まれている時だと云う事も言えます。そう云うチャンスに恵まれていましても。さあ不安のあまり、さあ誰に頼り彼に頼ったり、神様を取り外して仕舞うてそげな事では日頃信心している値打が無い。
 そう云う時に力を付ける、神様を信じる力を頂く。どうぞよかりものによからずに、神様に心任せて心の中に安らぎを頂けれる、平常心のおかげを頂けれるだけのおかげを頂きたい。その事をどうぞ皆さんの心の中に頂かれて、私が二つの例を申しました切り花の事、猫と鼠の事を申しましたその事を思い合わせてどうぞ思うてみて下さい。